男には二種類いると思う。私のことを女として見ている男と、見ていない男。物心がついた時から、私はなぜか男をこの二種類に分類する能力に優れていた。私の身体を性的な目で見る男はすぐに分かる。私の頸が好きなのか、胸が好きなのか。どの部分を裸にして、どの部分に舌を這わせたいのか。その人の目の色を見ればなぜかそれらが手にとるように分かるのだ。今までの人生で、この二種類のどちらかに分類できなかった男はたったの一人だけ。一生忘れることのない、あの人について。
十六歳の夏に出会った彼のことを、私は好きになりすぎたのだ。それは単純な一目惚れで、彼が部屋に入ってきた瞬間からその姿に目は釘付けで濡れていた。まだ高校生になって三ヶ月も経っていなかったあの日、自分が女である事を自覚した。十歳年上の彼と私。年齢の差は身体の距離の差まで広げたけれど、日に日に距離は縮まり、近くで見れば見るほど彼は私の大きな謎になった。彼の言動一つとっても、私の頭と経験では理解することが難しかった。例えば、彼はいつも私を様々な年齢の女の子のように扱っていた。今日私の細い身体を舐め回すように見つめても、明日は私の頭を幼稚園児のように撫でる。そんな瞬間の積み重ねが私を気持ちのいい混乱へと招き、彼への好意は日に日に肥大した。
特定の一人と関係を持てないから、私は不特定の百人と関係を持つことを選んだ。この結論になぜ、どのようにして至ったのかは記憶の外にありどうしても思い出す事が出来ない。百本のペニスを見るとそれはもう全て同じ一本のペニスのように感じたし、今目の前にあるペニスも百本のうちの一本だと思うと罪悪感は少なかった。私の中で意味も大切さも百分の一だったから正直どうでもよかった。そのどうでもよさは私をいつも気軽にイかせてくれる。今日もそんなどうでもいい一本に私の夜を与えるために香水を首もとに吹きかけて家を出た。
道ですれ違う人がしたセックスと私がしたセックスを足すと何回になるのか、想像する事が好き。若い主婦、七十のおばあちゃん、化粧を覚え始めた中学生。百回、二百回、三百回。想像する回数が増えれば増えるほど、私は自分が昨日よりも大人になったように思えてくる。通り過ぎて行く人々の太陽に照らされた顔たち。昼間は澄ました顔で生活しているこの女たちは、何度男の腕に抱かれてきたのだろう。一体何を考えながらどんな存在の相手に身を任せてきたのだろう。とは言え、私自身も自分の回数なんてもう分かりっこないのだけれど。
待ち合わせ場所に着くと、既に男はそこにいた。タバコを右指の人差し指と中指で挟みながら、あぁ、と私を見て小さく呟く。その口から小さな煙がこぼれ、遠くにあるものがその煙に遮られて見えにくくなる。かける言葉がいつものように見つからないから、私は彼の左手をとり中へと入って行く。彼はまだ赤い火が灯るタバコを軽々しく地面へと落とし、それが落ちた音が聞こえたような気がした。
もう何度会ったのかさえ分からないこの男。部屋に入っても彼は変わらず無言を貫き通す。この人と彼の共通点は三十代、性別、そして目の色。たったそれだけ…。お互い慣れた沈黙の中でそれぞれの荷物を置き、対角線上にいる相手のことを意識する。 彼の視線の色が変わって行くのを肌で感じる。自分自身とこの身体が少しだけ特別なもののように思えて来る。急に心臓が痛くなり、一分前に入ったばかりのこの部屋から逃げ出したくなる衝動に襲われる。セックスが始まる前の沈黙が苦手。この目の前にいる男と体液の交換をするのか、と冷静な頭で考えてしまうから。早く、このコートを脱ぐ何もない瞬間を乗り越えて抱き締めるなり押し倒すなりしてほしい。早く…。スイッチを押してくれば、あとは体液ごとベッドの上で流れればいい。私は目を瞑り、彼に全てを委ねて、一人のことを考えていればいいだけ。
「君は妹みたいだからね、恋人としては見れない」
この言葉を聞いた夜、私は道ですれ違った男に安物のチョコレートを投げつけるように処女をあげた。まだ高校生だった私の身体は折れてしまいそうなほどに細かった。若い男は躊躇なく私の服を脱がせ、胸を触り、下へ手を滑らせ、私を新しい世界へ導いてくれた。初めて見たペニスとその味はいまだに鮮明に記憶に残っている。それが、私の身体を貫いた瞬間も。何も迎え入れたことのない小さな穴は悲鳴をあげた。でも、彼のこの言葉が私に与えた痛みに比べたらそれは無痛に近かった。むしろ、このかすかな痛みこそが心の傷の麻酔だった。彼の言葉を聞いてしまったこの耳も、他の男に舐められたら忘れられるような気がした。行為が終わると、なんかこれで食べな、と少しのお金を置いて男は部屋を出て行った。私は妹なんかじゃないし、男だって勃起させられる。ベッドに出来た赤いしみを見つめ、一人で泣いた。
あの日から、地面が崩れ落ちたかのように男と寝始めた。二人目、三人目、四人目、五人目。いつか彼と寝る日が来たら、ちゃんと彼の相手ができるように。一人の夜に寂しさから自分を殺さないように。様々な男と寝れば寝るほど私は女に近付いたような気がしたし、男を気持ちよくする方法も分かってきた。いつか、頑張ったね、と彼が私を迎えにきてくれる日を待ちながら私は週のほとんどの朝を知らない男と迎えた。朝は私たちにとっての終わりで現実への帰り道。百分の一のペニスという麻酔薬も太陽の前では効力を失ってしまう。身体を違う男に与えれば与えるほど彼は少しずつ私から遠くなっていくような気がした。分かっているのに、やめられなかった。
ベッドに倒され、天井が目に入る。身体を上から下までまさぐられ、心がこの小さな部屋に引き戻される。三つの共通点しか持たない男。そしてそのどれもがとてもかすかで今すぐにでも消えてしまいそう。男は私の服をいつもの慣れた手つきで脱がせる。冷たい手。きっとこの男の私にたいする気持ちもこれくらいの温度のはず。こいつだけじゃない。今までの百本が私に与えた愛情は、彼らが放出した精子の重さよりも軽い。そしてその軽さは私の彼への気持ちの重さに勝つことはきっと一生ないだろう。首もとを舐められ、デコルテの方へと小さな舌は移動していく。そっと目を閉じ、この男がいつも私にしてくれるようにしてもらおうと心の中で小さく諦める。
「君は妹みたいだからね、恋人としては見れない」
身長何センチだっけ、と彼に聞かれたとき、私は小さな声で自分の身長を答えた。母親と同じで小さいのがコンプレックス。身長の高いかっこいい女性になりたかったから。母親は泣き虫で父親にすがりながらよく泣いていた。私はそんな母親の姿を見て、絶対に男の人の前では泣かないと心に決めていた。そんな母親の遺伝子を受け継いだ私の身長。彼は笑いながら、可愛いね、と言って私の頭に左手をのせた。あの年のあの冬。彼の手の温もりを思い出す。たった三秒の出来事だったけれど、私にとっては永遠だった。彼の手が離れた瞬間、私は濡れた瞳で彼を見つめた。彼は、小さい子、俺好きだよ、と小さい声で呟いた。
「濡れてる」
現実は私の身体を舐め回っているこの男。この薄汚い犬のような年上の男。今までどれくらいの時間をこの男と身体を重ねて使い果たしたかなんてもう分からない。身体を重ねても私に執着しないところが好きだった。他の男みたいに、付き合おう、とか好きだ、とか性器を舐めさせたくらいで勘違いする人たちとは違ったから。でもこの男が私の中に存在できるのは私の身体に触れている今だけ。別れたら、他のペニスと記憶の中で混じり個は一瞬で消失する。
フェラして、と男が私の頭を撫でる。人差し指で耳の裏をなぞり、そのままその指を私の口の中に入れる。嫌だ、とは言えないから私は麻酔が効いている身体をゆっくりと起こす。セックスの行程の中で一番嫌いなのがフェラだった。好きでもない男に何かを与える行為は私の中では苦痛極まりない。意思がある中で動かなきゃいけないのも、相手の顔が見えてしまうのも、相手が私の髪を愛おしそうに触れる瞬間も。全てが嫌い。嫌いだけど、当たり前のように皆してよと言い、私はそれに首を振ることが出来ない。
頭を上下に動かしながら、ふと上を見ると薄笑いを浮かべているあの気持ち悪い男の顔はもういない。彼が、私を見下ろしている。彼の瞳が、私を捕えて離さない。私は泣きそうになる。彼の一部を口に含んでいる、と思うと胸がきゅうっと痛くなる。そのまま、彼が私の頭をその手で掴んで無理矢理それを喉の奥まで突っ込む。私は彼の足下で吐き、彼はあの日のように左手で私の頭を撫でる。私は大声で、三歳児のように泣く。ぼろぼろと大粒の涙を流して、彼の腕にしがみつく。ごめんね、ごめんね、と彼が優しく言う。
今すぐ、私の唇にキスをしてほしい。彼に必死に伝える。ううん、口ではない違う穴にも。鼻、耳、口、喉奥、性器。毛穴の全てに唾を流し込んで、私の体内に流れる水をあなたの水と取り替えてほしい。あなたと一ミリ離れるごとに、私の心臓は一ミリずつナイフで突き刺されるように痛むから。遠い場所にあなたがいる時は、私の心臓はもうぐちゃぐちゃの血まみれで、息をすることで精一杯なの。あなたがまたキスして縫い戻してくれる時を待ちながら生きるのが、辛くてたまらないの。あなたが糸と針を持って私の前に現れてくれるという確証がないのが、どれくらい怖いか分かる?
「挿れていい?」
瞬きをすると、彼の顔はあの男の顔に戻っている。私が口に含んでいるこの味のないペニスも彼のもの。夢から覚める瞬間にさえ、私はもう慣れてしまった。この男にとって私は性器を口に含む権利のある女でも、彼にとって私は妹。妹は彼の深い部分を知る権利を与えられない。
男が再度私をベッドに寝かせ、私の股の間に割り込んでくる。両方の太ももに軽くキスをした後に、穴にもキス。右手の中指と人差し指でそこをほぐしながら、頭を私の頭の方に近づけ唇にキス。そして、それはやっぱりなんの躊躇もなく入って来る。私はフェラの次に挿入される事が嫌いだった。挿れられるたびにあの日のベッドの赤いしみを思い出す。本当は彼に与えたかった、私の処女。どうでもいい男を受け入れ、重々しいリズムで突かれているこの瞬間。でも、彼は私にとって特別な男じゃない。だから大丈夫…。彼は私を傷つけられないし、万が一それが出来たとしてもその傷は深くまで刻まれないだろうし。気持ちいい、と感じてしまう自分が嫌い。好きな人がいるのに薄情だと思う。そもそも彼への気持ちを理由にして、なぜ私は百人の男たちと寝てきたのだろう。私はなぜこの人に私の身体の全てを与えているのだろう。そんな事を考えながら、悟られないように静かにイく。
全ての行為が終わると男は私よりも先に部屋を出て行った。頭はぼんやりとして、手はしびれ、身体は濃度の高い汗で濡れていた。セックスの跡が残るベッドで一人になると、全てが嘘だったかのように思えて来る。それは私が今した行為だけではなく、荒々しく繋がったあの男や、そして彼のことさえも。ベッド脇のソファーに放り出された鞄に取り憑かれたように歩いて行く。携帯を取り出し、裸のままもう一度ベッドに身体を投げる。薄暗い中で煌々と光る画面を見つめながら、明日の麻酔を決める。全てが嘘だと思えるこの瞬間が、いつまでも消えてほしくなかった。こんな事の繰り返しで、自分の唇の皮が全て剥がれていたことにも気付かなかった。
彼にもう会えない、と告げられたのはそれから四日目の夜だった。
私たちは一ヶ月に一度食事をするレストランで、いつも他愛のない会話をする。彼は仕事の話をして、私は大学の話をする。君、一人暮らしだからさ、ご飯が心配なんだよ、と彼は私を毎回誘ってくれる。私は彼の可愛い妹というポジションをなんなく受け入れて笑顔でついていく。私たちはいつも三時間くらい話して、たまにお酒を飲んで、でも終電を逃したり、必要以上に触れ合うことはなかった。話し終えたらまた今度ねと言ってその夜は切り上げる。彼はたまに私の頭を撫でる時があったけれど、本当にそれだけ。私が微笑むと、彼も微笑んでくれる。緊張感のない彼との心地いい夜たちが私は好きだった。
でも、この夜は違った。彼は最初からどこか深刻そうな顔をして、いつも話してくれる仕事の話もしてくれない。私はジュースのように甘いお酒に口をつけながら沈黙を恐れるように大学の話をする。彼は、そうか、と言って私を優しい目で見つめる。その眼差しで、胸が痛くなる。私は彼のことが本当に好き。その眼差しもその口もとも、これ以上ないというほどに美しく見え罪悪感を覚えてしまう。私はそんな彼が見ていない中で何人の男にこの身体を投げ与えたかは分からないし、普通の大学生の何倍もの人とセックスをした。でも彼の瞳の中では私は十六歳だったあの夏に戻ってしまう。まだ誰にも抱かれたことのなかった綺麗な身体。誰も好きになったことのなかった純粋な身体。必死に力をこめなかったら、きっとお酒に涙が入ってしまう…
「君とは、もう会わない」
寂しく笑った後、あのさ、という言葉に続けて彼はこの言葉を私に突き刺した。混雑していたレストランの音が、私の耳の中で耳鳴りに変わった。首もとから唾の匂いがする。セックスが終わったあとの、あの生々しい匂い。頭の中で、私がしてきた全ての行為が再生された。シャワーで必死に落とした男の精液、朝起きるといない男の身体、一週間消えることのなかった首のあざ。全てが私の頭の中で再生されて、目の前にいる彼に集結される。呼吸が出来なくなる。身体と心がガラスのように割れてしまいそうだった。
彼は淡々と彼女ができた、結婚を考えているから、と告げた。私は、そう、と言う事しか出来なかった。少しでも感情が口から出たら、きっとこの目の前のお酒は私の涙で溢れてしまう。だから、私は必死に傷ついていないふりをして、心にふたをした。知らなかった、おめでとう、と口から出た言葉は私の声とはほど遠く、あの日私の胸に触れた男の手のように冷たかった。無理矢理笑顔をつくってみせると、口角が限界だ、と叫ぶように震えた。この震えにあなたが気付いていませんように、と強く願う。君、泣いちゃったらどうしようかと思ったから、と彼は私の目を見ずに笑った。私は大丈夫だよ、と呟いた。泣かないよ、もう大人だし、と。
レストランを出て駅まで歩く間、私たちは静かだった。すれ違う楽しそうな家族や恋人たちは、私たちがもう二度と会うことがないという事実も、私がどのくらい彼に恋をしていたのかも知らない。今夜はいつものように闇に溶けて行く数百もの夜と一緒。月の光はいつものように形を変え、眠りにつくと朝がくる。私たちにとっての終わりは他の人にとっては認識するにも値しない出来事。その事実が私の胸を強く締め付ける。歩いている間彼を見ることさえも出来ず、ひたすら前へと進もうとする四つの靴に目を落とした。小さな赤いヒールを履いている私と大きい黒い革靴を履いている彼。淡々としたリズムで、私たちは始まらなかったものの終わりへと近づいていた。十分ほどで駅の白い光が私たちの身体を照らし、現実はもうそこにあった。
「君、元気でね」
私はあなたも、と言った。これ以上、言えなかった。
彼の小さな背中は、あれから何年も経つ今も記憶に残っている。本当は、ちゃんと聞きたかった。どうしてもう会えないのか。私はあなたにとって可愛い妹じゃなかったのか。私はあなたにとってどんな存在だったのか。彼の背中が不特定多数の人間に飲み込まれた瞬間、私は大声で泣き叫んだ。彼に届けばいい、と思いながら私は必死に一人で泣いた。もう会えないという事実より、最後まで掴め切れなかった彼の眼差しを思い出す方が辛かった。最後まで分からなかった。最後まであなたは私に少しもヒントを与えてくれなかった。私を狂わせたあなたは、一瞬にしてどうでもいい他人で埋め尽くされた街の中へと消えてしまう。そんなずるい彼に、命を削り取られるほど恋をした。
全身の体液を涙に変えて、私は何日間も泣き続けた。睫毛も抜け、涙が伝う頬も爛れ、声も枯れきってしまった。こんなに涙を流すのは、きっと一生のうちで最初で最後のように感じるほどだった。全ての涙を出し終えたあと鞄から携帯を取り出し、私は百人の男の連絡先を全て消した。百本のペニスは私の人差し指によって呆気なく私の人生から退場し、もう戻って来ることはなかった。
あの日から、冬が来る度に彼と彼の身代わりだった男達のことを思い出す。
赤いしみ。
彼の温かい手。
首もとの唾。
泣かなくてよかった、と言う彼の顔。
時折思い出す記憶の欠片たち。そのどれもが現実味に欠けていて、まるで夢のようだった。何年もの間、彼という痛みを伴う夢の中で眠り続けた私の麻酔たち。今、私は一人でも夜の闇にとけ込むことが出来る。時が解決したのではなく、私が成長し、少しずつ大人へ、女性へ近づいているということを信じながら。ベッドの脇にある灯りのスイッチを消し、暗闇の中で息をする。
窓から洩れる月あかりが私の部屋を照らす。
ベッドに横たわり天井を見上げ、男が横にいない事に安心する。
目を瞑り、眠りにつく前に彼のことを少しだけ考える。
夢の世界に入る合図の火花。
その火花と共に、あの日の彼の顔が私のまぶたの裏で甦る。
私は小さく笑う。最後に一つだけ。
私、泣くときはいつも一人なんだよ。
誰かの肩にすがらない強さも、
目を赤く腫らしてしまう弱さも、
私にはあるから。
いつか、あなたがそれを知ってくれたらいい。